仮想現実の世界

〈仮想現実という未来へのタスク〉

仮にも、毎日ある一定のタスクを、そうだな、1時間のタスクを毎日こなせば、ある自分が望む大きな成功が手に入るとする。

それが自ら望んだ成功で、かつ、毎日のその日課で確実にそれが手に入るなら、私たちは、果たして、するだろうか、それともしないだろうか?

 


「する場合」

その日々の日課さえして、その日が来るのを待てば良い

 


「しない場合」

そのような成功を収めることだけを望んだわけではない。

未来の不確かさを考慮した上で、成功を望んでいると思われる。

 


〈このように考えると、不確実性を含めて、一種の総合的な奇跡も含む、成功を私たちは望んでいる〉

 


“少女には、いまある姿の少女を望み

少年には、将来の彼を望む”

 


ゲーテ

 


奇跡=ここでは、達し得るか、得ないか不確かである要素

 


ここでの奇跡は、未来の不確実性を含む、可能性としての奇跡を成功にプラスアルファする。

どういうことかというと、「する場合」と「しない場合」で、二者択一を迫られた場合、私たちは、固定さている成功を望まない場合があるということだった。

つまり、一種のスリルを求めているところもあるということだ。「しない場合」

このスリル、一か八か、または、奇跡、能力の限界地点での自ら望んだ成功点、その瞬間は、本当に間一髪のところ、バカと天才のように紙一重であるというようなもの、そうしたものを望んでいるところがあるということだ。

その一種のスリルは、半分は、願望、半分は、信仰によってなし得る。

したがって、願望は、そのような奇跡的な状況を望むこと、信仰は、その過程でどう想うか、であり、その全体の終点と始点が、いかに正しかろうが、それは、変化する、諸行無常のような要素が、必要であるということである。

そこにその人々それぞれの個性や独自性が生じ、いわゆる、“味”が出てくるのだと思う。

 


始点と終点の正しさ+変化と奇跡(願望+信仰)

「しない場合」の望まれる成功

 


そのシーソーのバランスが大切であり、その変化量が、常に、現実味を帯びると、実は、ひとは、それに変わる、「変化と奇跡」を欲しがるのである。

つまり、始点と終点の正しさ(成功度合い)に対して、どうのような「変化と奇跡」が割合としてあるかが、個性的で、独自の部分であると言える。

現実的であるひとほど、このシーソーは、左側、つまり、「始点と終点の正しさ」に重きを置くものとなるだろう。

 


〈仮想現実は、このシーソーと、可能なタスクの形成を考え出すこと、そして、日々の進捗具合に左右される〉

 


シーソーの法則とこれを呼ぶと、「始点と終点の正しさ」(固定収入)+「変化と奇跡」(願望+信仰)[変動収入]のことを意味するが、このシーソーの法則と、可能なタスクを形成するためのアイデアを考え出すこと、日々の進捗が、大抵の場合、大事なものとなる。

 


〈可能性なタスクに仕立てるアイデアやイメージを持つことの大切さ〉

 


ある成功、つまり、具体的な資格や、就職などが、私たちの目的である場合、それは、手に入った瞬間、おそらく、変動収入「変化と奇跡」を欲しがるようになる。

ダヴィンチは、確かに

 


“希望が断たれると、願掛けが生まれる”

 


と言っているが、このような場合には、2つ含まれる。

つまり、終点に立った(希望が叶い、終わった)場合と、その希望が、何らかの形であきらめられた(希望が未だ叶っておらず、諦めた)

このような2つの通りがあるということである。

私は、この2通りのうち、「希望が叶い、終わった」場合の希望が絶たれた場合を想定していっているのであるが、そのような場合にも、ダヴィンチの言うところの願掛け(私の言うところの)「変化と奇跡」が始まるのである、と言いたいわけである。

 


〈仮想現実は、シーソーの法則と、総合的なバランス、完成度の高いイメージやアイデアを大事にする〉

 


ところで、願掛け「変化と奇跡」は、芸術と言える側面もある。

芸術とは、時に、「世俗を離れ、その瞬間に生きる、精神的活動」と言える。

これは、その時々で、決まらないものだから、「変化と奇跡」とも相性が良い。