最小限主義
〈連続と不連続〉
物事には、連続な面と、不連続な面がある。
例えば、時間は、流れ、連続であると言える。
空間は、そこに在り、不連続であると言える。
この他、聴覚は、連続な音の波を頼りにするのに対して、視覚は、不連続な物の点を頼りにする。
〈用語会話と教科書会話〉
=不連続と連続の重ね合わせ=
用語会話は、やったことがあるからわかるだろう。
用語という一つの限界で、短い短文を単語のように不連続に捉え、それを連続な会話で捉えるというものだ。
これに対して、教科書会話は、やったことがないからわからないだろうけれど、教科書という一連の流れを連続とみなして、それを会話で捉えるものである。
そこに、用語会話でやった用語を不連続に用いることで、さらにわかりやすくするというものだ。
一般に、どのやり方も、何かが欠けている。
その何かが欠けているところは、見つけにくいが、この用語会話と教科書会話なら、弱点をが明確に分かる方法であり、互いに埋め合う方法であるところが、重大なところだ。
「用語会話と教科書会話のまとめ」
①不連続な用語を連続的な会話で捉える=用語会話
②連続的な文章を不連続な用語で捉える=教科書会話
③互いに長所・短所があり、それらを重ねることで弱点を埋め、利点を活かすことができる
④効率が良い
⑤1コマ5分間から、30分間程度と短い時間でできる
⑥やっているうちに立体的な知識が身につく
〈最小限主義を取ろう〉
家事でも勉強でも最小限主義を取りたい。
というのも、労力を省きたいからだ。
自分も忙しいのなら、ヒトも忙しいと考えると、両者に共通する労力は、必ず最小限にしたいものだ。
我々は、協力者であるべきなのである。
〈勉強会の頻度も優先順位をつけて最小限の労力としたい〉
勉強会もモノによっては、優先度が低いものがある。
“友人は第2の自己である”
こうアリストテレスは言う。
最小限主義であるべきなのは、言うまでもないことだが、明示しておく。
〈ヒトは、危機感・恐れ・必要性から学習するものだ〉
ヒトというのは、恐れや、危機感もしくは、必要がなければ、何も学ばない、動物園の寝ている虎と化す。
動物園の虎は、戦う・争う“必要”がなくなり、寝ているわけであるから。
ヒトもそんな風に、恐れや、危機感、必要性が感じられなければ、寝ているか、好き勝手するか、生きている意味すら見失うか、学習する気を失うかするだろう。
そのため、畏れや恐れ、怖れ、危機感、必要性は、学習する上で、重要な意味を持つ。
〈必要性だけで生きると若干困るハメになる〉
必要性だけで生きていると、その必要性が奪われるたら、その人は、生きる意味を失う。
例えば、仕事に夢中で必要とされてきた恵まれたヒトは、退職して、何も必要性がない場合、生きる意味を失う場合があるだろう。
その他、主婦も危ない。
子育てを最高の必要性と感じていたヒトなら、子が育ったら、生きる意味を失う可能性が十分にあり得る。
ここで言わなければならないのが、保険である。
保険としての学問は、重大な意味を持つ。
ときに、生きる意味を与え、ときに苦しみを与えるが、これは、賭け金が割と低い生きるための保険であると言える。
そしてまた、いわなければならないのが、次のようなことであろう。
“若くして求めれば、老いて豊かである”
これは、学問としての保険に適応する言葉だ。
この学問の保険は、若くして、求め、精神を追求し、大きな志を持たないと、保険を解約される場合があるというようなものであるから、なるべくはやく、この学問なり、趣味なりの保険をかけていないと、老いて豊かにはならないのだ。