アクティブラーニング

〈アクティブラーニングと仮想現実〉

 


以前、仮想現実という未知の仕事を先取りするというものを説明した。

これをアクティブラーニングと一緒に考えてみることにする。

 


①すでに3巻ほど出来上がったMOSのノートを説明する

(できれば一緒に実際にやってみるか、ノートに記述、テストする)

 


判例基本六法とコンパクト六法を用いて犯罪を考えだし裁く

 


③プログラミングで、できそうな課題を私が考え出し、それを実務として実際に、私をクライアントとし、要求(仕事として)プログラミング作成してもらう

“アクティブラーニング”「仮想現実」

 


④漢字と四字熟語を書き学ぶ

 


⑤漢文と古文を学ぶ(生きた漢文古文)

 


⑥見破る

(対象を問題と捉え骨組みを読み取る)

 


〈現在考え得る想像上の実務※仮想現実をアクティブラーニングとしてやってみることについて〉

 


アクティブラーニングとはそもそも、どういったものであろうかと、考えたとき、アクティブに、自分で作成するなどすることを意味するらしい。

例えば、数学を参考書から、学び取るということではなく、数学の問題を作成してみるなどというものであり、前者は、受動的な学びであるのに対して、後者が、能動的な学びになるということだ。

現実生活で、仕事に就くことは、すでに遅れていることを意味する。

なぜなら、それは、仕事を作ってもらっているから、一手も二手も遅いわけである。

その点、アクティブラーニングや、仮想現実は、一手も、二手も、早いわけである。

実務経験がないとどうも・・・と誰もが思うかもしれない。

けれど、実務に近似する仮想現実は、本当に作れないのか?

そもそも、実務とは、実際に存在するのであろうか?

誰かが仕事を作り、それを仕事としているはずであるから、まだ見ぬ想像上の仕事は、必ずあるか、その場で作られているのである。

実務に近い、仮想現実は、私は、作れないことはないと、思っている。

(根拠のない自信)

 


〈実際、実務経験があるが、それ以上に、仮想現実とか、アクティブラーニングの方が重要であるように感じる〉

 


場所によって、仕事は異なる。

これは、絶対であろう。

コールセンターとデータ入力では、必ず異なるなど、設計関係なら設計関係、土木なら土木関係、公務なら公務、それぞれ異なるはずである。

確かにこれは、言えることで、当たり前のように言われるものだ。

しかし、仮想現実を作っていく場合、何の仕事を仕事とみなすか、ということは、一大事である。そして、仮想現実は、ほぼ、自分たちが、したい仕事になるはずであるから、私の場合なら、法務や、事務、マーケティング、研究者となるなど限定されていくことになる。

そうであっても共通となるものはないわけではない。

たとえば、プログラマーにしても、MOSは、必要にあってくるし、研究者と言えども、私の求める研究者と、プログラマーは、数学は、共通している。

このように考えていくと、共通する項目が見つかるだろう。

 


〈労力を最小化することから、考えるべきであろう〉

 


とはいえ、このように考えていくと、必ず、しなければならないことはあるわけであり、しかも、あまり時間を割かずに、済ませたいのは、誰でも思うことである。

ゆえに、まず、アクティブラーニングや仮想現実をする場合、労力を最小限にすることが求められるのである。

例えば、初めから、一回あたり、20から30分間しか勉強会をしないとか、そういう取り決めが必要になるということだ。

最小限主義

〈連続と不連続〉

 


物事には、連続な面と、不連続な面がある。

例えば、時間は、流れ、連続であると言える。

空間は、そこに在り、不連続であると言える。

この他、聴覚は、連続な音の波を頼りにするのに対して、視覚は、不連続な物の点を頼りにする。

 


〈用語会話と教科書会話〉

=不連続と連続の重ね合わせ=

 


用語会話は、やったことがあるからわかるだろう。

用語という一つの限界で、短い短文を単語のように不連続に捉え、それを連続な会話で捉えるというものだ。

これに対して、教科書会話は、やったことがないからわからないだろうけれど、教科書という一連の流れを連続とみなして、それを会話で捉えるものである。

そこに、用語会話でやった用語を不連続に用いることで、さらにわかりやすくするというものだ。

一般に、どのやり方も、何かが欠けている。

その何かが欠けているところは、見つけにくいが、この用語会話と教科書会話なら、弱点をが明確に分かる方法であり、互いに埋め合う方法であるところが、重大なところだ。

 


「用語会話と教科書会話のまとめ」

 


①不連続な用語を連続的な会話で捉える=用語会話

②連続的な文章を不連続な用語で捉える=教科書会話

③互いに長所・短所があり、それらを重ねることで弱点を埋め、利点を活かすことができる

④効率が良い

⑤1コマ5分間から、30分間程度と短い時間でできる

⑥やっているうちに立体的な知識が身につく

 


〈最小限主義を取ろう〉

 


家事でも勉強でも最小限主義を取りたい。

というのも、労力を省きたいからだ。

自分も忙しいのなら、ヒトも忙しいと考えると、両者に共通する労力は、必ず最小限にしたいものだ。

我々は、協力者であるべきなのである。

 


〈勉強会の頻度も優先順位をつけて最小限の労力としたい〉

 


勉強会もモノによっては、優先度が低いものがある。

 


“友人は第2の自己である”

 


こうアリストテレスは言う。

最小限主義であるべきなのは、言うまでもないことだが、明示しておく。

 


〈ヒトは、危機感・恐れ・必要性から学習するものだ〉

 


ヒトというのは、恐れや、危機感もしくは、必要がなければ、何も学ばない、動物園の寝ている虎と化す。

動物園の虎は、戦う・争う“必要”がなくなり、寝ているわけであるから。

ヒトもそんな風に、恐れや、危機感、必要性が感じられなければ、寝ているか、好き勝手するか、生きている意味すら見失うか、学習する気を失うかするだろう。

そのため、畏れや恐れ、怖れ、危機感、必要性は、学習する上で、重要な意味を持つ。

 


〈必要性だけで生きると若干困るハメになる〉

 


必要性だけで生きていると、その必要性が奪われるたら、その人は、生きる意味を失う。

例えば、仕事に夢中で必要とされてきた恵まれたヒトは、退職して、何も必要性がない場合、生きる意味を失う場合があるだろう。

その他、主婦も危ない。

子育てを最高の必要性と感じていたヒトなら、子が育ったら、生きる意味を失う可能性が十分にあり得る。

ここで言わなければならないのが、保険である。

保険としての学問は、重大な意味を持つ。

ときに、生きる意味を与え、ときに苦しみを与えるが、これは、賭け金が割と低い生きるための保険であると言える。

そしてまた、いわなければならないのが、次のようなことであろう。

 


“若くして求めれば、老いて豊かである”

 


これは、学問としての保険に適応する言葉だ。

この学問の保険は、若くして、求め、精神を追求し、大きな志を持たないと、保険を解約される場合があるというようなものであるから、なるべくはやく、この学問なり、趣味なりの保険をかけていないと、老いて豊かにはならないのだ。

仮想現実の世界

〈仮想現実という未来へのタスク〉

仮にも、毎日ある一定のタスクを、そうだな、1時間のタスクを毎日こなせば、ある自分が望む大きな成功が手に入るとする。

それが自ら望んだ成功で、かつ、毎日のその日課で確実にそれが手に入るなら、私たちは、果たして、するだろうか、それともしないだろうか?

 


「する場合」

その日々の日課さえして、その日が来るのを待てば良い

 


「しない場合」

そのような成功を収めることだけを望んだわけではない。

未来の不確かさを考慮した上で、成功を望んでいると思われる。

 


〈このように考えると、不確実性を含めて、一種の総合的な奇跡も含む、成功を私たちは望んでいる〉

 


“少女には、いまある姿の少女を望み

少年には、将来の彼を望む”

 


ゲーテ

 


奇跡=ここでは、達し得るか、得ないか不確かである要素

 


ここでの奇跡は、未来の不確実性を含む、可能性としての奇跡を成功にプラスアルファする。

どういうことかというと、「する場合」と「しない場合」で、二者択一を迫られた場合、私たちは、固定さている成功を望まない場合があるということだった。

つまり、一種のスリルを求めているところもあるということだ。「しない場合」

このスリル、一か八か、または、奇跡、能力の限界地点での自ら望んだ成功点、その瞬間は、本当に間一髪のところ、バカと天才のように紙一重であるというようなもの、そうしたものを望んでいるところがあるということだ。

その一種のスリルは、半分は、願望、半分は、信仰によってなし得る。

したがって、願望は、そのような奇跡的な状況を望むこと、信仰は、その過程でどう想うか、であり、その全体の終点と始点が、いかに正しかろうが、それは、変化する、諸行無常のような要素が、必要であるということである。

そこにその人々それぞれの個性や独自性が生じ、いわゆる、“味”が出てくるのだと思う。

 


始点と終点の正しさ+変化と奇跡(願望+信仰)

「しない場合」の望まれる成功

 


そのシーソーのバランスが大切であり、その変化量が、常に、現実味を帯びると、実は、ひとは、それに変わる、「変化と奇跡」を欲しがるのである。

つまり、始点と終点の正しさ(成功度合い)に対して、どうのような「変化と奇跡」が割合としてあるかが、個性的で、独自の部分であると言える。

現実的であるひとほど、このシーソーは、左側、つまり、「始点と終点の正しさ」に重きを置くものとなるだろう。

 


〈仮想現実は、このシーソーと、可能なタスクの形成を考え出すこと、そして、日々の進捗具合に左右される〉

 


シーソーの法則とこれを呼ぶと、「始点と終点の正しさ」(固定収入)+「変化と奇跡」(願望+信仰)[変動収入]のことを意味するが、このシーソーの法則と、可能なタスクを形成するためのアイデアを考え出すこと、日々の進捗が、大抵の場合、大事なものとなる。

 


〈可能性なタスクに仕立てるアイデアやイメージを持つことの大切さ〉

 


ある成功、つまり、具体的な資格や、就職などが、私たちの目的である場合、それは、手に入った瞬間、おそらく、変動収入「変化と奇跡」を欲しがるようになる。

ダヴィンチは、確かに

 


“希望が断たれると、願掛けが生まれる”

 


と言っているが、このような場合には、2つ含まれる。

つまり、終点に立った(希望が叶い、終わった)場合と、その希望が、何らかの形であきらめられた(希望が未だ叶っておらず、諦めた)

このような2つの通りがあるということである。

私は、この2通りのうち、「希望が叶い、終わった」場合の希望が絶たれた場合を想定していっているのであるが、そのような場合にも、ダヴィンチの言うところの願掛け(私の言うところの)「変化と奇跡」が始まるのである、と言いたいわけである。

 


〈仮想現実は、シーソーの法則と、総合的なバランス、完成度の高いイメージやアイデアを大事にする〉

 


ところで、願掛け「変化と奇跡」は、芸術と言える側面もある。

芸術とは、時に、「世俗を離れ、その瞬間に生きる、精神的活動」と言える。

これは、その時々で、決まらないものだから、「変化と奇跡」とも相性が良い。

海それは素戔嗚

今週のお題「海」

 

私にとって、海は、素戔嗚だ。

大海原の支配者だからだ。

そして私にとって、大地とは、母なる大地であり、母性の意味がある。また、大空は、父性を意味する。これを数学に例えることが私には多い。遠ざかるモノ「SINθ」つまり、遠い世界の父性を言い表わし、近くモノ「COSθ」つまり、近い世界の母性を言い表す。そして、それらの父性、母性の間に愛たる海の法則・性質とも言える、「i」の虚数がある。実は、これは、オイラーの公式のことを言っているのだ。

 

COSθ+iSINθ=eℹ️π

 

これを「望月の歌」になぞらえてこう言うことにする。

 

“日月輪観の世とぞ思う望月の掛けたることも愛と想えば”

 

エーリッヒフロムは、こうした母性と父性の子としてのあり方をうまく表現しているらしい。私の場合、伊邪那美が、母なる大地、伊奘諾が、父である大空、子である三貴子の1人末子の素戔嗚だ。